神や仏とは

神道

ある夜、子どもたちは集まって
あるところに行こうとしていました
そこは、大人たちが拝み敬う(おがみうやまう)祠ででした

悪さをしようと集まったのですが
祠の前にくるとヒザが震え足が進みません

一人の子供が小さな鳥居をくぐり祠の前にたち
手を伸ばす
そして、小さな扉をあける
ほかの子供たちは逃げるように後ろに下がる

勇気を出した子供が手にしたものは
くさりかけた木片であった
大人たちが神・仏と大事にしていたものは、こんなものかと
足利尊氏はおもいました

時代は足利尊氏の作った室町時代終焉のおり
神をも恐れぬ信長は
比叡山焼き討ちを実行しました。

参加していた武将が信長に

「これは尊い(大事な)仏様です、このようなことをしてはいけません」
信長は側にあった仏像を切りつけ
「見ろ、木ではないか」と言い放ったという

神・仏というものを物理的・合理的に考えた逸話です。
背景に宗教や権威の世俗化があり
迷信を否定し、物理的・合理的な考え方は世の中の発展を促しました。

これは、私たちの現代日本人が教育されていることで
間違っていることではなりません。
ですので、神仏を多くの方が文化財・民俗習慣として考えています。

お寺や神社に来ても
お城などの旧跡と変わらないように見ています
それは、非難することではなく、
いまはそれが世の中の形です

ヒーラーという仕事をしていると
神や仏が木でも、紙でもなく
それぞれが発するエネルギーや
時には思いも感じたりします。

感じなくても
お願いもしますし

まして、秘仏などの目に見えないものでも
前に立つだけで拝みたいという気持になったりします。

スピリチュアルの本質というのは
目に見えない者と共振・共感することなのかなぁと思っています。

スピリチュアルや、宗教は時に社会問題や金銭トラブルが起こります。
悲しいことですが故意に犯罪として行っている、または、合法的に犯罪に近いこともあります。

倫理観から外れることも

迷信を否定し、物理的・合理的な考え方をされる
お身内や世間から見れば心配されるのは当然です

ただ、その前提で
目に見えない者に対して思いを感じる私たちがいます。
神様・仏様であったり
何かのエネルギーであったり
それを感じたり
感じなくても、そこに心をつなごうとする心のある人
頼ろうとする心のある人です

いまの時代では
神社仏閣で手を合わせたくなる
あなたはひとつの才能をもたれています。。
才能というとまちがった解釈をされるかもしれませんが

その時点でひとつの覚者(悟りを体得したもの)。

悟りはたくさんあり、生きている限り、
数々の悟りをクリアしていかなくてはなりませんから

もしかしたら、選民(選ばれた人)なのかもしれません

それは、人から見れば他の国の言葉を話せる程度のことかもしれません

でも、天国や浄土にいけると約束されているわけではありません

チョチョイのチョイとお金持ちになるわけでも、ハーレムで暮らせるわけでもありません

社会的や、スピリチュアルとして
他の人と違う特別な存在でなくとも

ただ、心をどこに向けるか
自分の持っているもの

自分が大事だとする感覚

それを心で大事にすることがスピリチュアルなのではないでしょうか?

生きている以上

お金も大事、仕事も大事、家族も大事

大事なものを守るため、時にしてはいけないこともするのが

魂と心をもった私達でもあります。

特別なものではない、「大事にしたい個性」を心に持った人です

私達は毎食、命を喰らわなければ生きてもいけません・・・

それを見ないで生きることのできない人生です

でも、心で大事にすることを大事にする

それをわたしは大事にしていけたらと思っています。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

【仏像】高級上彫り・真言宗大日如来・檜丸台火炎光背・2.0寸【smtb-td】【RCP】
価格:13,600円(税込、送料無料) (2024/3/19時点)

楽天で購入

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました